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◆プロジェクト評価は必要ない
プロジェクトの評価の議論をするときに、常に、行き当たるのがこの問題。ちょっと脱線するが、コラムとしてこの問題を考えてみたい。
日本人は古くから猫に額といわれる田んぼで、血のにじむような努力をし、生産性を向上し、収穫を得てきた。これによりいろいろな価値観が生まれてきた。一粒の米も粗末にしない、失敗は許されない、諦めない、周囲の田んぼと仲良くして迷惑をかけない、ものごとをあいまいにしておく、など。政策的にこのような価値観が推奨された節もある。
このような価値観は日本人のビジネス観にも根強く残っている。敗戦で一から出直したときにもこの価値観は生き延びた。このような価値観というのは、努力が確実に報われる環境下では悪いことではない。というより、とても効率的なやり方である。戦後の高度成長はその証だといってもよいだろう。田んぼのメタファでは、どんどん、新しい土地を切り開いて、田んぼに変えて行くことのできる間は努力は報われる。
この状況で各田んぼ(プロジェクト)の評価をしようとすると何が起るか?評価する必要はないという結論に行き着く。収穫を増やそうと思えばいくらでも田んぼの開墾の余地はある。みんな頑張っている。何で評価をする必要があるのか?ということになる。
ところが、もう開墾する土地がないとなると話は変わる。努力しても報われるという保証はない。というより、努力するだけでは報われない。そこで、まず、成果主義だと言い出す。つまり、努力をするだけではだめで、成果が出たものに報いようという発想だ。ただし、もう新たに開墾する土地がない、生産性もあがる見込みがないという閉塞的な状況で成果主義を持ち出しても尻すぼみになるだけだ。
この状況でプロジェクトの評価をすると、何が起るか。これ以上トータルの収穫が増えない中で、成果をあげる方法はひとつ。失敗しないことだ。つまり、失敗の可能性が少ないほど、よいプロジェクトだということになる。
しかし、この期に及んでも、まだ、努力は美しいという小学校の道徳で学んだ価値観が捨てられない。成果のある努力のみが美しいとはあまり思われない。従って、失敗しないプロジェクトがよいのだが、失敗すればそのときにはみんなで考えようということになる。結果として、やはり、評価には本腰が入らない。
◆拾うための評価ではなく、捨てるための評価
このように評価ができない根源は、捨てるものがないということにある。要するに、分けられる間は分けようという発想が強く根付いている。国土の広さの制約で、捨てて、大きくとるということができなかった。これがいまだに尾を引いている感がある。
多くの事業領域で感じるのは、これからは捨てないと成長できないだろうということだ。グローバル化というのはある意味で捨てることである。国内で自社のコンピタンスに合わない事業を捨て、海外に市場や人材を求める。成長神話の発想で、まずは国内制覇。それが実現できれば海外進出などと考えていると捨てることもできないし、グローバルな事業もできない。京都には戦後、急速に成長したベンチャーがいくつかあるが、共通した特徴は国内とグローバルの展開を最初から分けていないことだ。従って、評価と選択が極めて重要であり、それに成功した企業が成長している。
戦略経営とは何をやるかではなく、何をやらないかと決めることだとよく言言われる。プロジェクトを評価する際に、「実施する」プロジェクトを決めるためだと考える人が多い。この考えの背後には、別段問題なければ、捨てる必要はないという思いがある。最近注目の「もったいない」である。しかし、一方で、慢性的な人手不足に悩む企業も多い。
二つを考え合わせると、はやり、プロジェクト評価は捨てるために行うと考えた方がよい。そうすることによって、今まで見えなかったリスクが見えてくることも多々あるように思う。
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