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◆82億食の奇跡
今年のお正月早々に即席ラーメンの生みの親である日清食品創業者会長である安藤百福氏が96歳で人生の幕を閉じたというニュースが流れた。安藤氏は1948年に日清食品の前身、中交総社を設立。即席ラーメン第一号である「チキンラーメン」を58年に発売、爆発的なヒットをさせた。その後、即席ラーメンは市場が厳しくなり、チキンラーメンの地位も安泰ではなくなる。併せて、チキンラーメンを主力商品としていた日清食品の経営も苦しくなる。安藤は海外展開を試みるが、器の問題で躓き、失敗する。
この状況で、安藤が次に目論んだのは、「丼」のない諸外国でのラーメンの普及だった。プロジェクトX「82億食の奇跡」はここから始まるカップヌードルの開発ストーリーを描いたものである。
◆容器と麺の開発
当時社長だった安藤氏は、ラーメンではなく食品化学の知識を活かした仕事をしたいと言って入社し、社内で問題児扱いをされていた大野一夫研究員(32歳)と新入社員だった佐々木雅弘氏(23歳)に白羽の矢を立てた。安藤に課題を与えられた大野は、容器の問題から着手する。さまざまな容器を考案するが、いずれも安藤の厳しい意見の前にボツ。ある日、出社すると安藤からのヒントが机に置いてあった。大野はそのヒントで、「ラーメンを食べるための器」という既成概念から脱却でき、安藤の満足するものを作りあげる。
麺でも同じような試行錯誤を繰り返す。麺ではいかに中まで火が通るように揚げるかというのが最大の課題になった。ここでも、安藤の「天ぷらはどうやって揚げるか知っているか」という一言がヒントになり、なんとか、クリアする。
◆海老と高級感
次は具だ。大野は大学の時に学んだフリーズドライの知識を活用し、この課題をクリアしたかに見えたが、またしても安藤から「高級感を出すためにどうしても赤い海老」がほしいという難題を吹っ掛けられた。この問題に絡んだのがプライシングの問題。安藤はどうしても100円という価格に固執した(チキンラーメンは30円)。また、どうしても「赤い」海老が見つからず、諦めかけ、海老を入れずに値段を下げることを考えていた大野に対して、「世界中にいる海老の種類の中で、君はどれだけ試したのか。買いかぶりすぎていた」と挑発し、大野に粘り強い挑戦をさせる。大野は四六時中海老のことを考えていた大野は偶然入ったバーで注文したシュリンプカクテルに使われていたインド洋でとれるプーラハンという海老に遭遇する。そして、見事に赤い海老を具にすることに成功し、高級感を実現した。
◆販売での苦戦と銀座歩行者天国キャンペーン
営業の結果が好ましくないことでみんながあきらめ感が漂ってきたときに、安藤は営業の秋山是久に「忙しい現代人に時間を売る」というコンセプトに立ち返り、その対価として100円をぶらすなと激励する。
販路にも試行錯誤したが、あるとき、大野の提案で賭けにでる。銀座の歩行者天国でカップヌードルを売って、コンセプトを広めようとする。このときに、安藤は陣頭指揮をとって、自ら販売員になり、熱く思いを語る。銀座キャンペーンも徐々に効果を奏し、ついには長蛇の列ができるまでになる。そして、カップヌードルは一挙に全国区に知られる商品となる。賭けに勝ったのだ。
◆大成功
そして、2000年。カップヌードルは全世界で年間82億食を売るフードになった。阪神大震災のときに、大活躍したことも記憶に新しいし、また、スペースシャトルでの食事として実験されたことも記憶に新しい。忙しい現代人に時間を売る商品としてコンセプトされたが、このような社会的に意味のある用途がどんどん開発されていくことは、まさにラーメン王の安藤百福の真骨頂だと言えよう。
【安藤百福の5つのスポンサーシップ】
このカップヌードル開発プロジェクトの中で、プロジェクトスポンサーである安藤百福氏が果たした役割の中から重要なものを5つあげてみる。
(1)覚悟をもったメンバーアサイン
まず、人選である。初期のメンバーは問題児の社員と新入社員である。当時、チキンラーメンが頭打ちになり、会社の業績自体が停滞している中で、この2人に託した。特に大野氏に託したのは、人を見る目を背景にした、適材適所だといえる。
ただし、適材適所だけではこのようなメンバーアサインはできない。適材適所だけを考えてみたところで、「人材がいない」で終わるのが関の山だ。人材のいない中で、伸びシロを考えて、人を選ぶ。そして、彼らに任せて、直接の手しをしない。このような覚悟を決めて、初めて適材適所が可能になる。
(2)タイミングのよいアドバイス
安藤氏は大野氏や営業の秋山氏に実によいタイミングで、彼らの思考を加速するすばらしいアイディアを与えている。プロジェクトXの物語からははっきりしないが、これは、手の平で遊ばせているというのではなく、おそらく安藤氏も彼らと一緒に考えることによって、その答えを導き出したのだと思う。そのために、安藤氏はコミュニケーションを欠かさなかった。これが一つのポイントだろう。
また、安藤氏は「タイミングよく」アドバイをすることによって、次の世代を担う大野や佐々木、秋山という人材を育てていることも見逃せない。
(3)コンセプトをぶらさない
中間成果物に対して厳しい目を持ち続けていたことは、どうしても譲れないものがあったのだ。それが100円という価格で表現される高級感。安藤氏が狙っていたのは、この価格戦略によるラーメンの既成概念の打破。日清はその後、「ら王」で同じ戦略をとったことがあるのだが、その原点がここにあった。
(4)成功を大きくする
それまでは決して腰を上げることはなく、大野や秋山に任せていた安藤氏は銀座キャンペーンで自らが陣頭指揮を執る。この背景には自分の思いを顧客に伝えたいという思いがあると思うが、プロジェクトの成功を加速するために必要だと思ったのではないだろうか?プロジェクトスポンサーが表にでるときは、トラブルのときではない。成功を確実なものに、かつ大きくしたいときだ。その原則を貫いた行動だと言える。
(5)卓越した戦略眼
カップヌードルの一番の成功は、82億食という驚異の数字もさることながら、阪神大震災の時の非常食での活躍や、宇宙食への可能性が開けたことではないかと思う。58年に開発されたということなので、来年で50年である。一般に食品の商品寿命は長いが、用途が社会環境の変化に合わせてどんどん変化していくことは究極の商品である。その背景に、安藤氏の戦略眼があることは間違いないだろう。
そのような戦略眼があるので、信念を貫くことができる。これからの50年使われる商品だからコンセプトは譲らない。戦略上の目的を決してぶらさない。ここにプロジェクトスポンサーとしての真骨頂があるといえる。
【参考資料】
プロジェクトX 挑戦者たち 第4期 Vol.2 魔法のラーメン 82億食の奇跡 ― カップめん・どん底からの逆襲劇(2002)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000068WJL/opc-22/ref=nosim
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