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エンジニアがよいプロジェクトマネジャーになること(トランジション)は意外なくらい難しい。この記事はエンジニアの仕事とプロジェクトマネジャーの仕事はどう違うのかを明確にした上で、トランジションの障壁になっているものを整理し、どうすれば変わることができるのかを、著者のコンサルティング経験に基づき、整理したい。
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エンジニアがよいプロジェクトマネジャーになること(トランジション)は意外なくらい難しい。この記事はエンジニアの仕事とプロジェクトマネジャーの仕事はどう違うのかを明確にした上で、トランジションの障壁になっているものを整理し、どうすれば変わることができるのかを、著者のコンサルティング経験に基づき、整理したい。
◆ダムを造ることが目的なら、プロジェクトを中止する理由はない
ダム建設中止の是非が大きな問題になってきた。住民は、今の「中止ありき」で協議をしていくという方法に激しく反発している。
ダムのプロジェクトではダムを造ること自体を目的にしているわけではない。たとえば、熊本の川辺川の場合だと、ダムを造る目的には、治水、水源(かんがい)、発電の3つの目的があるとされる。時代が経てば、状況が変わり、目的が消失することがある。当たり前の話だ。3つある目的のうちの治水だけが残っている。
当然、投資対効果が変わってくるし、目的が変わるということはプロジェクトとしては仕切り直しをすることを意味する。しかし、仕切り直しをすることなく、40年継続された
この問題の構図ははっきりしている。戦略的にプロジェクトを進めようとせず、「実行ありき」なのだ。目的というのはある意味でどうでもいいのだ。ある意味というのは、必要ないというとではない。「実行ありき」で、目的は実行するための「理由」に過ぎないということだ。従って目的が変われば、仕切り直しするという理由はない。
つまり結果としてか、確信犯かは別にして、ダムを建設すること自体が目的だったということになる。
よく走り出したプロジェクトは中止できないというが、目的が「ダムを造ること」だとすれば、中止する理由などないわけである。この点をよく押さえておいてほしい。
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◆型と形
6月25日のPMstyle+メールマガジンの巻頭言に守破離(しゅはりと読む)について書いたのだが、短時間で簡単に書いたので、もう少し、詳しく調べて記事にしてみた。
どうも、守破離を論じる前の問題として、型とは何かという問題があるようだ。PMスタイルという型に関係するコンセプトを打ち出しながらいまさらの話で恐縮なのだが、いろいろと調べてみた。
東北大学名誉教授の源了圓先生は、型とは何かと考えるときに、形と型はどう異なるのか?がポイントだと指摘している。源先生によると、型を構成するものは心技体であり、
「型」とは、ある「形」が持続化の努力を経て洗練・完成したものであり、機能性・合理性・安定性を有し、一種の美をもっている。さらにそれは模範性と統合性を具えている。
【出典】http://www.sal.tohoku.ac.jp/80thanniv/minamoto.html
と指摘する。型が機能性、合理性、安定性、規範性、統合性というのは、分野に関わらず、型である限り必要な要素だというのは納得ができる。プロジェクトマネジメントで、米国プロジェクトマネジメント協会(PMI)により1987年に初めてまとめられたプロジェクトマネジメント標準と1996年にまとめられたPMBOK第1版を比較してみるとこれは非常によく分かる。
◆型とは家と間からなる
編集工学を唱える松岡正剛氏は、
型というものは、いろいろのものと一緒にある。一番わかりやすくいえば「家」と「間」とともにある。「家」は職能の伝統を守る門のことで、ここに家元も出てくれば、入門も破門も出てくる。
【出典】http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1100.html
と指摘する。
家は上の説明の通りである。日本人にはPMIを家だと見做している人が少なくない。違うと思うが、まあ、そう考えたい気持ちはわからなくはない。
◆間とステークホルダマネジメント
説明しにくいのは間である。日本人にとって、「間が悪い」などという言葉があるように、間という概念は浸透している。しかし、説明となると難しい。そもそも、間というのはなぜ必要なのか?
間について調べていたところ、やはり、源先生の指摘がもっとも納得できた。著者なりにまとめてみると、
間というのは心技体の心の部分に関わるものである。いろいろな間があるが、たとえば、能の世阿弥は父である観阿弥の教えを成熟させていく中で、本質的な美の追求と、観客を本位とした美の実現という異なる二つの方向性を、いかにして両立させるかという問題に行き当たった。そこで、静止してはいるが全身全霊がこもった緊張状態である「せぬ隙」を生み出した。ただし、そうした内心の精神的な動きを観客に知られては具合が悪いので、自分自身が自分の心を隠すことが必要だと考えた。これが「無心」であり、無心ができて、心技体が完成する
というのが源先生の見解である。プロジェクトマネジメントの型を極める中で、この間というは意外と重要ではないかと思われる。ステークホルダマネジメントの本質は間にあるのではないかと思うからだ。
◆型の成熟と守破離
このように型というのはいろいろな視点がある。このほかにの見方もあると思うが、源先生の指摘のように「形」の延長線上にあるのだと思う。つまり、型を極めるというのは、形から入り、型を覚え、型を破り、新しいものを作っていくプロセスということになる。
このプロセスを示したのは、守破離である。このプロセスを、守破離という言葉で表現したのは、江戸時代の茶匠、川上不白の『不白筆記』である。
川上不白の『不白筆記』では、
守ハマモル、破ハヤブル、離ハハナルと申候。
とある。また、川上不白は『茶話集』で
守は下手、破は上手、離は名人
とも記している。
この考え方自体は禅の考え方で、川上不白が影響を受けたのではないかと推察される達人がいる。ひとりは上で名前の出てきた世阿弥で、『風姿花伝』で「序破急」を説いた。もう一人は歌集『利休百首』にて、
規矩作法 守り尽くして 破るとも 離るるとても 本を忘るるな」
と説いた千利休である。いずれにしても、まず最初は型を守り、次に型を崩してみる。そして、最終的に型から離れるというプロセスである。離れるというのが若干イメージしにくいが、離れるというのは松岡正剛氏の家が重要な要素であるという説明を考えるとよく分かる。家を離れるのだ。家を離れたからといって好き勝手にやってよいという話にはならない。千利休のいうように「本を忘るるな」である。すなわち、本質を見失うなということだ。
◆プロジェクトマネジメントにおける守
この守破離のプロセスは、プロジェクトマネジメントにおいても、展開でき、有用なものであると思われる。
まずは、守である。教えられた型を徹底して学ばなければならない。この学びの中では形が出発点になる。形を覚え、そこから型の意味を学んでいくのだ。スキルを「身につける」とかいうのは、この段階をさす言葉で、ここでは教えが必要である。
プロジェクトマネジメント道では、PMBOKの型を覚え、PMPの資格を取るというのが王道かもしれないが、PMBOKにこだわる必要はない。ある程度の範囲で型と認めているものであれば、何でもよい。たとえば、企業独自の流儀とか、業界独自の流儀とかでもよいわけだ。
◆プロジェクトマネジメントにおける破
次の「破」はその身に付いたスキルをつかって、行動をすることだ。あまり使わない言葉だが、身につけるに対して、「身を働かせる」といってもよい。落語で芸を揶揄する言葉に「箱入り」というのがあるが、この段階で箱からでなくてはならない。そのためには創造性や工夫が必要である。そして行動において重要なことは、その行動による影響をきちんと認識し、感じておくことが必要だ。
プロジェクトマネジメントでいえば、PMBOKを覚え、実際にやってみる中で、現実に合わないところがあれば、変えていく。たとえば、プロセスのインプットやアウトプットを変える、ツールを変えるといったこと。あるいは、プロセスそのものを破ることも破だといってもよいかもしれない。
ここで重要なことは、実際に変えてみたときにどのようなことが起こったかをしっかりと観察し、型の持つ意味をしっかりと理解することだと思う。それが上手に型を崩すことにつながっていく。
◆離とはキャリアである
そして、「離」は自由自在に行動すること。しかし、本質を踏み外してはならない。
能や茶道のような求道的なものとは少し違うかもしれないが、マネジメントにおいてもやはり、この本質なるものはあると思われる。本質に行き当たるには、何のために仕事をしているのか、そして何のためにマネジメントをするのかというところがポイントになるのだろう。
それはたぶん、顧客のためであったり、社会のためであったり、あるいは自身のためであったりする。著者はビジネスの世界ではそこまでに積み上げてきたキャリアを活かして仕事をする、あるいはキャリアをかけて仕事をするといったことが、離に当たるのではないかと思っている。ここで重要なことは、自由に行動するということは、すなわち、自身のキャリアをかけているのだということをきちんと認識することである。
キャリアが型に変わると言ってもよいと思う。
型を持たないスタイル、キャリアをかけて仕事をするというスタイル。これが「ひとつ上のプロマネ。」の目指しているところである。
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