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◆取り残されるという「勝手な思い込み」
我々のもう一つの失敗はグローバルスタンダードに従わないと世界から取り残されるのではないかという、勝手な思い込みしてしまったことである。これは大変な勘違いであった。文化ほど独自なものはない。文化は弱さの原因でもあるが、他の人のまねできない強さ、つまり、独自能力の原因でもある。
このフレーズは、加護野忠男先生の「経営の精神」に出てくるフレーズである。この議論で最も念頭に置かれているのは、SOX法による内部統制である。SOXに限らず、一般的な議論だと思うが、この議論は難しい議論である。何が難しいかというと、競争のルールをどう考えるかだ。
◆ルール変更で勝てなくなる
ビジネスに限らず、スポーツ、外交など、さまざまな分野で日本のルールに対する駆け引きは下手だという指摘がある。それがもっとも顕著に表れているのがスポーツだろう。柔道のようにお家芸と言われた種目で、度重なるルール変更によってメダルが取れたら喜ぶレベルになってしまった競技もある。ジャンプや、スキー複合のように、せっかく、切磋琢磨して強くなってきたら、いきなり、ルール変更でまったく勝てなくなった競技もある。ビジネスでもこういう例はたくさんある。興味があれば、青木高夫さんのこの本を読んでみて欲しい。怒りがふつふつとわいてくるだろう(笑)。
青木高夫「ずるい!? なぜ欧米人は平気でルールを変えるのか」、ディスカヴァー・トゥエンティワン(2009)
まあ、加護野先生の言葉でいえば、そのような環境変化に愚直に対応してきたのが、今の日本を作っているということなのだろうが、、、
◆欧米と日本ではルールの決め方が違う
さて、ビジネスにおいてスタンダードの持つ意味は、商品、企業、国といったあらゆるレベルでの競争のルールに他ならない。つまり、ビジネスで競争をするにあたって、これだけは守りましょう。という暗黙の了解である。加護野先生の指摘は、それをグローバルスタンダードという名のもとに、欧米にコントロールされているという指摘である。青木さんも同じことを言われている。
なぜ、こういうことになるのか?日本におけるルールの決まり方を見ているとよく分かる。ルールを決める目的(戦略)がない。目先の問題を解消するためにルールを決めるというもっとも原始的なやり方でルールを決めていることがほとんどである。よく言えば誠実である。
スポーツや貿易を見ているとよく分かるが、ルールがそのように決められることは珍しくなっている。目的ありきだ。
目的 → ルール → 問題
というロジックになっている。競争なのであたり前だ。例えば、
ジャンプの日本の優位性をなくしたい(戦略)
→ スキー板の長さを短くしよう
→ スキー板が長いと、飛行の安全性に問題がある
というロジックになっているわけだ。問題があまりにもとってつけたものであれば支持されないルールになるが、残念ながら欧米のシナリオを書く能力は日本人の比ではない。
ところが、日本人がルールを決めるときには、
問題 → ルール → 成果
となる。上の場合と、この場合では、できるルールが全く違う。これがグローバルスタンダードというルールの作られ方である。
◆ルールにどのように向き合うか
ただし、ビジネスの競争をするのにルールを作って、そのルールを守りながら公正な競争をしようという発想自体は正当なものである。この否定は、資本主義の否定である。
すると、道は3つしかない。
(1)新しいルールで競争力を高めていく
(2)ルールを作る場で勝つ
(3)ルールができることに抵抗する
かのいずれかである。加護野先生の指摘は、今まで一番目の選択肢でやってきたことへの警鐘である。(2)は今後は分からないが、今のところ、アングロサクソンが世界を支配しているので、難しいと思われる。そうなると(3)しかない。(3)の先輩は中国人である。
◆プロジェクトマネジメントのグローバルスタンダードを巡る詭弁
前置きが長くなったが、プロジェクトマネジメントの話に移ろう。プロジェクトマネジメントの世界には、大きなルール(グローバルスタンダード)が2つある。PMBOK(米国)とPRINCE2(英国)である。ずっと拮抗しながら発展していっているところに、プロジェクトマネジメントというツールの位置づけの重要性が伺われる。
このような情勢の中で、日本はPMBOKに従おうとしている。ただ、ここで考えるべきなのは、そもそも、プロジェクトマネジメントのルールの目的は何かという点である。
例えば、PMBOKが注目去れ始めたときに、まとこしやかに
グローバルプロジェクトでは、いろいろな国の人が同じ方法で管理をしなくてはならない。だから、PMBOKがよい
と言われた。
これは明らかに詭弁である。どこをごまかしているかというと、透明性とオープンであることをごちゃ混ぜにしている。グローバルプロジェクトに必要なのは透明性であって、オープンであることではない。ITを使った管理を前提にしているので、オープン性もある程度問題になることは理解できるが、本質的には管理はその国にあった方法で、
(1)アカウンタビリティの明確化
(2)インタフェースの統一
だけをしておけば、マネジメントの透明性が担保でき、協働できる。文化に根ざさないやり方など非生産的なこと、きわまりない。
プロジェクトマネジメント自体が目的であれば話は別だが、手段である。手段である限り、プロジェクトを成功させるという目的を達成できればよい。その場合、合理性が手段を選ぶ基準になる。ダイバーシティが求められるときに、ものごとを明確にするというのは、生産性が高いやり方とはいえない。日本流の必要な部分だけドキュメント化し、根回しで意思決定をしていくというやり方の方が遥かに合理的である。
◆一周遅れか、一周進んでいるのか
例えば、ドキュメント化の是非という議論があるが、信頼関係が構築されており、かつ、スピードの勝負をしているときにドキュメント化することはあまりメリットがあるとは思えない。
ドキュメントに記録的な意味合いがあるのであれば、各プロジェクトにエスノグラファーでもつけて記録すればよい。というのは冗談だが、例えば、7つの習慣で有名なスティーブン・コヴィーは、「スピード・オブ・トラスト」という本の中で、「信頼」がスピードを上げ、コストを下げ、組織の影響力を最大化すると指摘している。
スティーブン・コヴィー、レベッカ・メリル 「スピード・オブ・トラスト」、キングベアー出版(2008)
この考え方は、日本の企業は高度成長期の中で構築したものを、グローバルスタンダードに従うために、自ら捨ててきた考え方である。そして、仕事の仕方がだんだん、雑になって、品質が下がり、コストをかけて品質を維持するという愚か者のサイクルに入っている。
印象的には一周進んでいるのに、自分が信じられないで、一周遅れのランナーを一生懸命追いかけている気がする。企業が閉塞感に包み込まれた今こそ、一度、立ち止まって考えてみるチャンスである。
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