2008-12-01

プロジェクトマネジメント栄えて、プロジェクト滅ぶ

◆マネジメントが組織を滅ぼす

「政治家栄えて国滅ぶ」とか、「官僚栄えて国滅ぶ」といったとかいうフレーズがあるように、統治者が栄えて、統治対象を滅ぼしてしまうというのは世の常である。

マネジメントでもこういう現象はよく見かける。マネジメントが組織を滅ぼすという構図だ。多くの原因があるが、代表的なものを3つあげるとすれば

(1)自分以外を変えることによって会社を変えようとする傾向がある
(2)マネジメントは自分より能力があるものを登用しない傾向がある
(3)管理を目的とし、過剰な管理をする傾向がある

である。実はこの3つは、ピーター・ドラッカー博士の膨大なるマネジメントに対する遺言の中に、しっかりと警鐘されていることでもある。

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2008-06-19

あなたは大野耐一になれるか?

◆あなたは大野耐一になれるか?

トヨタウェイのエバンジェリスト若松義人氏が書いた「大野耐一から学んだトヨタ鬼十訓」という本の中に、こんな話が出てくる。

新車の生産性向上のプロジェクトの一環で、社員のD氏がカンバン方式の指導で部品メーカに行った。この部品メーカはカンバン方式を取り入れて間もないところで、カンバンの紛失が相次ぎ、機能していない状況だった。

このままでルールを守っていれば受注を受けても生産ができず、部品メーカはもちろん、トヨタ自身が困ると考え、カンバンを増発した。これを知った大野氏は「カンバンを探しもせずに、勝手に増発するとはどういうつもりだ」と叱ったという。

プロジェクトマネジャーの上司、あるいはプロジェクトスポンサーであるあなたは大野耐一になれるだろうか?

◆大野耐一の不在に泣くプロジェクト

ミドルマネジャー研修やシニアマネジャー研修のような場でこの話を聞くと大方の人は、大野氏のようにするという。しかし、現場を見ていると、D氏がとった行動を示唆したり、あるいはひどい場合には指示しているケースが多い。黙認しているケースも含まれると、大野氏支持派より、D氏支持派の方がマジョリティのように思える。

プロジェクトマネジャーと対話をしていると、プロジェクトで重大な問題が発生したときにプロジェクトを止めて考えることはできないという人が圧倒的に多い。走りながら考えるしかないという。つまり、D氏になっている。

なぜだろうか?大野耐一がいないからだ。

プロジェクトを預かっているとしても、組織に影響があるリスクは取りにくい。そのため、もっと有効な策があるとしても、応急処置で終わってしまうことが多い。スケジュールが遅れてきたら外注を投入する、コストがオーバーしそうになったら外注の質を下げ、コストも下げる。

プロジェクトマネジャーがリスクを取らずにできることはここまでだ(といっても、このような応急処置こそ、リスク源なのだが、、、)

◆上位マネジャーは忙しい

そのようなリスクを取りたければ、相談に来いという上位マネジャーも少なくない。これはナンセンスである。自らがそういう大局的な判断を自発的にできるだけの時間が取れないマネジャーに相談したところで、(能力はあるかもしれないが)埒があかない可能性の方が高い。まず、判断に至ったロジックを説明するだけでも一苦労。さらに、リスクを取るという場合には、判断に加えて、決断が入る。決断した理由など相手が納得できるように説明できるものではないし、そもそも、説明するものでもないだろう。

では、なぜ、ひとつひとつのプロジェクトに対応できないのか?答えは単純だ。多くのプロジェクトを抱えていること、そして、プロジェクト以外にもやるべきことが多いからだ。
そこで、ここだけは押さえておこうということで、自分なりに工夫して、プロジェクトの報告を受けたりしている。

◆上位マネジャーとプロジェクトマネジャーの意識のずれをスポンサーシップで解消する

ところがそのポイントが、プロジェクト側が見ておいてほしいポイントとずれているのだ。これが最大の問題である。ただし、この場合、組織の中の力関係として上位マネジャーの方が強いので、プロジェクトマネジメントがゆがめられることになる。さすがに最近では減ってきたが、計画を細かく作っている暇があったら作業をしろという上位マネジャーは絶滅しているわけではない。

米国では、上位マネジャーがどのように振る舞えばプロジェクトマネジメントが機能し、プロジェクトの成功に結び付くかというところに体系的なノウハウがある。それは「プロジェクトスポンサーシップ」という形で整理されている。何回か、このプロジェクトプロジェクトスポンサーシップについて書いてみたい。

大野耐一を目指して!

2007-11-29

シャープの液晶事業を生み出した5つのスポンサーシップ

◆佐々木正と和田富夫

電子・情報分野のエンジニアであれば、佐々木正の名前を知らない人はいないのではないだろうか?富士通の役員からシャープに転身し、電卓のIC化で偉大な業績を上げ、シャープの事業基盤を作った一人と目され、副社長まで務めた人物だ。社外においても、世界最大の学会IEEE(The Institute of Electrical and Electronics Engineers,Inc.)において日本人としては5人目になる名誉会員を授与されるなどの評価を受け、また、さまざまな公的機関の役職を務めてあげている。近年では、ソフトバンクの相談役として、孫正義社長の後見人的存在になり、注目された。

その佐々木正がシャープの液晶事業でも大きな役割を果たす。

シャープの液晶事業の基盤作りを担ってきたのは、和田富夫というエンジニアである。和田はEL(エレクトロルミネッセンス:電圧をかけると蛍光を発行する無機体。一時、ブラウン管の代替技術として本命視された時代があった)による液晶テレビの開発プロジェクトに取り組んでいた。

しかし、なかなか、うまくいかず、プロジェクトは解散し、プロジェクトメンバーは左遷される。和田も技術管理部の配属になり、現場を離れて技術者の裏方仕事に従事することになった。

◆液晶にみたビジョン

それから3年、技術管理の仕事にも慣れてきたころ、夕食をとっていた和田は運命の出会いをする。「世界の企業 現代の錬金術」というドキュメンタリーで、RCAの液晶技術の開発を知る。いてもたってもられなくなった和田は、当時の産業機械事業部長である佐々木に液晶に関するレポートを上げる。あきれながらとりあえずレポートを受け取った佐々木は、サポートを読むや否や、RCAに連絡を取る。そして、表示速度が遅いため、実用に堪えないという情報をRCAから得る。

しかし、和田はあきらめない。こうすれば表示速度の問題が解決するというのを延々と佐々木に説明する。ついに、佐々木は和田に、「一線の技術者は出せない、実用化できなければ解散」という2つの条件で、開発を許可する。和田は背水の陣で、社内で協力してくれるエンジニアを自分で探す。また、人事に頼み、新入社員を配属してもらう。この一人が大学で有機化学を専攻していた船田文明だった。和田は、しばらく様子を見て、実験計画をすべて船田に任せる。

◆電卓の鬼

さて、当時のシャープの主力製品は佐々木が先鞭を付けた電卓であった。電卓においては、電卓の鬼とまで言われた鷲塚諫が大成功をおさめてトップシェアを誇っていたが、カシオの追い上げに、泥沼の価格競争に陥っていた。電卓の課題は電力と小型化だった。それに対して、両陣営とも画期的な策はなく、価格競争に陥っていたのだ。鷲塚は、コスト競争に終止符を打つ切り札を探していた。

この状況を見て、和田は、鷲塚に電卓の表示装置に液晶を使うことを提案する。しかし、その時点の技術では、あまりにも遅くて使えない。また、長時間連続使用により化学反応で気泡が生じるという問題もあった。

電卓のニーズにこたえるために頑張っていた船田が世紀の大発見をする。電圧を交流にすることにより、画期的に表示スピードが速くなり、かつ、気泡も生じないのだ。意気込んで電卓部隊に提案するも、電卓の表示装置は直流で設計されており、全面的な設計変更になるという理由で見送りになった。

◆液晶が電卓を救う

和田は気落ちすることなく、時計、電子レンジなどが、さまざまな応用先を探して奔走した。一方で、鷲塚は断ったあとも、不毛なコスト競争への対処に迷いに迷う。そして、ついに、液晶の採用を決断した。結果として、この判断が社を救うことになる。交流への設計変更をした電卓を開発しているうちに、ライバルのカシオが「カシオミニ」という電卓史上に残る商品を発売した。シャープが直流で考えていたレベルでは価格的にも、サイズ的にも到底太刀打ちできないような商品で、家計簿などのニーズを取り込み、電卓はビジネス用途から一挙に市場を広げる。同時に、トップシェアもシャープから奪い去っていった。

シャープの液晶電卓もなんとかめどがついてきた。価格を下げることなく、消費電力を下げることによって、電池代がかからなくなり、ライフサイクルコストで勝てる見込みが立った。

◆独断発注と事後承諾

いよいよ生産である。しかし、社内には反液晶の逆風が強く、なかなか、ラインを立ち上げられない。完成期限まで4か月を切った。生産装置の提案を依頼していた日本真空技術に、3か月で開発を頼むが、営業担当者には無理だと断られる。そこに先方の副社長が現れ、その場で契約するなら引き受けると譲歩する。まだ、決済などされていない。

和田はここで、首を覚悟で契約書にサインをした。会社に戻った和田は、当時、専務になっていた佐々木に、「独断発注してきた」と告げる。これを聞いた佐々木は「俺が佐々木の事後承諾を取る」と答えた。

約束通り、生産機械は3か月後に届き、無事に、液晶表示器の生産のラインが立ち上がる。シャープは、カシオからトップシェアを奪い返した。

これが、「液晶のシャープ」の始まりである。ちなみに、電卓の鬼といわれた鷲塚は液晶を取り入れる戦略を推進する旗頭になる。和田は不幸にも脳梗塞に倒れるが、液晶への執念からよみがえり、液晶のエンジニアとしての仕事人生を送った。

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2007-11-11

デジカメのドミナントデザインを築いた「QV-10」開発プロジェクトのスポンサーシップ

◆デジカメのドミナントデザインを築いたカシオ「QV-10」

現在ではデジカメというと、

 ・デジタルデータでの記憶
 ・ファインダーをビューアを兼ねた液晶画面

の2点において、従来のカメラとは異なる商品としてドミナントデザイン(市場の支配を達成したデザイン)が確立されている。このドミナントデザインを作ったのが世界中で大ヒットしたカシオのデジカメ「QV-10」である。

◆役員への直談判~しかし大失敗に終わる

カシオのデジカメ事業の中心にいたのはエンジニア末高弘之である。末高は好奇心とものづくり魂に富んだエンジニアで、カシオに入社後、カシオの70年代の代表商品の一つであるデジタル時計の開発で活躍をし、次のターゲットに電子カメラ(デジタルカメラ)を選び、役員である樫尾和雄に直談判し、開発を認められる。

こうして日本で最初のコンシューマ向け電子カメラの開発プロジェクトとして「Kプロジェクト」が立ち上がる。Kプロジェクトはまったくの素人の集まりだったが、徐々に学習していき、何とか、初代の電子カメラ「VS-101」の商品化にこぎつける。ところが、VS-101のマスコミ向けのレクチャーでは、なんと実機が動かなかった。マスコミ向けレクチャーを担当した樫尾和雄は、末高に猶予を与え、結局10か月後にやっと発売にこぎつけた。

にも関わらず、「VS-101」は全く売れず、大失敗に終わる。「VS-101」を開発したKプロジェクトは解散し、解散に際しては全メンバーが在庫処分のために、販売店での販売を手伝うという屈辱的な経験もした。

◆スカンクワークから、カメラ付き液晶テレビへ

Kプロジェクト解散の後は、メンバーはいろいろな部門に異動した。末高は研究部門に異動する。ここで上司だった松岡毅は、デジタルカメラ向けの研究開発を認めるわけにはいかないと言いながらも、スカンクワーク(組織から正式に承認されていない仕事)として、要素技術の開発活動を勧める。松岡の勧めにより、末高と一緒に残った富田成明は少しずつ、将来のデジタルカメラの開発に必要な技術的な課題を解決していく。

いよいよ、本格的な試作が可能になったあたりで、スカンクワークとして予算のないままでやる限界が来た。そこで、新しいデジタルカメラの開発を提案するが、「VS-101」の失敗は依然としてなまなましく、却下される。

そこに、「VS-101」の時代からデジタルカメラに興味を持っていた商品企画担当である中山仁が参画してくる。中山はデジタルカメラの開発ではなく、主力商品になることが期待されていた小型の液晶テレビの差別化オプションとしてテレビに映すものを撮影できるデジタルカメラという位置づけで、デジタルカメラの開発を提案する。商品はカメラ付き液晶テレビである。

このときの社長は「VS-101」で煮え湯を飲んだ樫尾和雄だった。樫尾は中山の思惑に気付きながら、開発を認める。

◆決断と成功

しばらくその形での開発が続くが、カメラ付き液晶テレビには価格見合いの決定的な用途が見つからない。そこで、末高と中山はカメラ単体として開発することに腹をくくる。社内にまだ、「VS-101」の失敗のトラウマがある中で、新しいデジタルカメラ「QV-10」の開発を提案する。

社長の樫尾は半ば呆れつつも、結局、社会的なインパクトがある商品の開発として開発を認める。今度はうまくものになるが、社内のトラウマはまだ残り、商品として期待されず、生産台数も少なく、また、プロモーション費用ももらえない。意を決した末高は米国のショーに乗り込んでPRをする。米国での評価は高く、マスコミに取り上げらた。これが日本にも飛び火し、日本でも口コミでその存在が知れ渡ることになる。

こうして、「QV-10」は成功し、初年度20万台を売り上げる。デジカメのドミナントデザインが誕生した瞬間であった。

後日、末高や中山はアワードで社長表彰を受ける。この表彰を誰よりも喜んだのは、社長の樫尾和雄自身だったかもしれない。

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2007-11-05

PMBOKではプロジェクトXはできない

仮説「プロジェクトXにはプロジェクトマネジメントはないが、スポンサーシップがあった」

メルマガで少し、触れたが、日経BP社の谷島さんにプライベートセミナーの講演をして頂いた後でお話をしているときにこんな話になった。PM業界では、「プロジェクトXになりたくなければ、プロジェクトマネジメントをやれ」という話をみんながしていたが、谷島さんの話によると、この話はプロシードの西野さんが言い出して、谷島さんがこれを記事で書いたので、あっという間に広まってしまったのだという。

 プロジェクトXになりたくなければプロジェクトマネジメントをやれ

という指摘は極めて正しいと思う。

ただし、プロジェクトXというのは本当に悪いのか?言い出した人たちは、プロジェクトXに取り上げられたプロジェクトなど、苦境の連続で、最後に何とか成功したのは、偶然にすぎないという思いがあるのだと思う。

実は、メルマガをはじめて2~3年目くらいに10回くらいメルマガの読者とのコミュニティセミナーを行ったが、このときに、好川はこの指摘をしていた。

プロジェクトXになりたくなければプロジェクトマネジメントをやれというが、PMBOKプロジェクトマネジメントをやるとプロジェクトXになれないというべきではないか

と何回か言っている。その頃は、何となくそのように感じていて、コミュニティセミナーの気楽さからそのような発言をしていたのだが、今、改めて考えてみると、その時に思っていたものが何だったかよくわかる。

プロジェクトXを支える一貫したマネジメントはプロジェクトスポンサーシップである。もちろん、スポンサーシップとは付随的なものである。スポンサーシップだけでプロジェクトが進められるわけではない。また、PMBOKにはPMBOKのプロセスを前提にしたスポンサーシップがある。

しかし、プロジェクトXのスポンサーシップは明らかにそのようなスポンサーシップとは異質なものである。PMBOKの世界のスポンサーシップはいかにすれば失敗プロジェクトをなくすことができるかという考え方で組み立てられている。失敗プロジェクトをなくすというのは、「如何に失敗しないプロジェクト目標を掲げるか」という意味である。プロジェクト要求(Project requirement)からすればそれは、100%の要求実現にならなくてもかまわないという考え方が背景にある。ビジネスプロジェクトというのはそういうものだ。

これに対して、プロジェクトXのスポンサーシップは、如何にプロジェクト要求を100%実現するかという考え方で組み立てられている。プロジェクトXで取り上げらている多くのプロジェクトは、PMBOKのような卓越したマネジメント手法ではなく、卓越したスポンサーシップでプロジェクト要求を完全実現しているのだ。

そして、これはPMBOK的なプロジェクトマネジメントでは正しい考えとはいえない。上に述べたようにあくまでも失敗しないような目標やスコープの設定をすることこそが正しいのだ。

ゆえに、PMBOKではプロジェクトXは実現できない。

カップヌードルの開発で「ラーメンの父」安藤百福の果した役割

◆82億食の奇跡

今年のお正月早々に即席ラーメンの生みの親である日清食品創業者会長である安藤百福氏が96歳で人生の幕を閉じたというニュースが流れた。安藤氏は1948年に日清食品の前身、中交総社を設立。即席ラーメン第一号である「チキンラーメン」を58年に発売、爆発的なヒットをさせた。その後、即席ラーメンは市場が厳しくなり、チキンラーメンの地位も安泰ではなくなる。併せて、チキンラーメンを主力商品としていた日清食品の経営も苦しくなる。安藤は海外展開を試みるが、器の問題で躓き、失敗する。

この状況で、安藤が次に目論んだのは、「丼」のない諸外国でのラーメンの普及だった。プロジェクトX「82億食の奇跡」はここから始まるカップヌードルの開発ストーリーを描いたものである。

◆容器と麺の開発

当時社長だった安藤氏は、ラーメンではなく食品化学の知識を活かした仕事をしたいと言って入社し、社内で問題児扱いをされていた大野一夫研究員(32歳)と新入社員だった佐々木雅弘氏(23歳)に白羽の矢を立てた。安藤に課題を与えられた大野は、容器の問題から着手する。さまざまな容器を考案するが、いずれも安藤の厳しい意見の前にボツ。ある日、出社すると安藤からのヒントが机に置いてあった。大野はそのヒントで、「ラーメンを食べるための器」という既成概念から脱却でき、安藤の満足するものを作りあげる。
麺でも同じような試行錯誤を繰り返す。麺ではいかに中まで火が通るように揚げるかというのが最大の課題になった。ここでも、安藤の「天ぷらはどうやって揚げるか知っているか」という一言がヒントになり、なんとか、クリアする。

◆海老と高級感

次は具だ。大野は大学の時に学んだフリーズドライの知識を活用し、この課題をクリアしたかに見えたが、またしても安藤から「高級感を出すためにどうしても赤い海老」がほしいという難題を吹っ掛けられた。この問題に絡んだのがプライシングの問題。安藤はどうしても100円という価格に固執した(チキンラーメンは30円)。また、どうしても「赤い」海老が見つからず、諦めかけ、海老を入れずに値段を下げることを考えていた大野に対して、「世界中にいる海老の種類の中で、君はどれだけ試したのか。買いかぶりすぎていた」と挑発し、大野に粘り強い挑戦をさせる。大野は四六時中海老のことを考えていた大野は偶然入ったバーで注文したシュリンプカクテルに使われていたインド洋でとれるプーラハンという海老に遭遇する。そして、見事に赤い海老を具にすることに成功し、高級感を実現した。

◆販売での苦戦と銀座歩行者天国キャンペーン

営業の結果が好ましくないことでみんながあきらめ感が漂ってきたときに、安藤は営業の秋山是久に「忙しい現代人に時間を売る」というコンセプトに立ち返り、その対価として100円をぶらすなと激励する。

販路にも試行錯誤したが、あるとき、大野の提案で賭けにでる。銀座の歩行者天国でカップヌードルを売って、コンセプトを広めようとする。このときに、安藤は陣頭指揮をとって、自ら販売員になり、熱く思いを語る。銀座キャンペーンも徐々に効果を奏し、ついには長蛇の列ができるまでになる。そして、カップヌードルは一挙に全国区に知られる商品となる。賭けに勝ったのだ。

◆大成功

そして、2000年。カップヌードルは全世界で年間82億食を売るフードになった。阪神大震災のときに、大活躍したことも記憶に新しいし、また、スペースシャトルでの食事として実験されたことも記憶に新しい。忙しい現代人に時間を売る商品としてコンセプトされたが、このような社会的に意味のある用途がどんどん開発されていくことは、まさにラーメン王の安藤百福の真骨頂だと言えよう。

【安藤百福の5つのスポンサーシップ】

このカップヌードル開発プロジェクトの中で、プロジェクトスポンサーである安藤百福氏が果たした役割の中から重要なものを5つあげてみる。

(1)覚悟をもったメンバーアサイン
まず、人選である。初期のメンバーは問題児の社員と新入社員である。当時、チキンラーメンが頭打ちになり、会社の業績自体が停滞している中で、この2人に託した。特に大野氏に託したのは、人を見る目を背景にした、適材適所だといえる。
ただし、適材適所だけではこのようなメンバーアサインはできない。適材適所だけを考えてみたところで、「人材がいない」で終わるのが関の山だ。人材のいない中で、伸びシロを考えて、人を選ぶ。そして、彼らに任せて、直接の手しをしない。このような覚悟を決めて、初めて適材適所が可能になる。

(2)タイミングのよいアドバイス
安藤氏は大野氏や営業の秋山氏に実によいタイミングで、彼らの思考を加速するすばらしいアイディアを与えている。プロジェクトXの物語からははっきりしないが、これは、手の平で遊ばせているというのではなく、おそらく安藤氏も彼らと一緒に考えることによって、その答えを導き出したのだと思う。そのために、安藤氏はコミュニケーションを欠かさなかった。これが一つのポイントだろう。
また、安藤氏は「タイミングよく」アドバイをすることによって、次の世代を担う大野や佐々木、秋山という人材を育てていることも見逃せない。

(3)コンセプトをぶらさない
中間成果物に対して厳しい目を持ち続けていたことは、どうしても譲れないものがあったのだ。それが100円という価格で表現される高級感。安藤氏が狙っていたのは、この価格戦略によるラーメンの既成概念の打破。日清はその後、「ら王」で同じ戦略をとったことがあるのだが、その原点がここにあった。

(4)成功を大きくする
それまでは決して腰を上げることはなく、大野や秋山に任せていた安藤氏は銀座キャンペーンで自らが陣頭指揮を執る。この背景には自分の思いを顧客に伝えたいという思いがあると思うが、プロジェクトの成功を加速するために必要だと思ったのではないだろうか?プロジェクトスポンサーが表にでるときは、トラブルのときではない。成功を確実なものに、かつ大きくしたいときだ。その原則を貫いた行動だと言える。

(5)卓越した戦略眼
カップヌードルの一番の成功は、82億食という驚異の数字もさることながら、阪神大震災の時の非常食での活躍や、宇宙食への可能性が開けたことではないかと思う。58年に開発されたということなので、来年で50年である。一般に食品の商品寿命は長いが、用途が社会環境の変化に合わせてどんどん変化していくことは究極の商品である。その背景に、安藤氏の戦略眼があることは間違いないだろう。
そのような戦略眼があるので、信念を貫くことができる。これからの50年使われる商品だからコンセプトは譲らない。戦略上の目的を決してぶらさない。ここにプロジェクトスポンサーとしての真骨頂があるといえる。

【参考資料】
プロジェクトX 挑戦者たち 第4期 Vol.2 魔法のラーメン 82億食の奇跡 ― カップめん・どん底からの逆襲劇(2002)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000068WJL/opc-22/ref=nosim

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