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エンジニアがよいプロジェクトマネジャーになること(トランジション)は意外なくらい難しい。この記事はエンジニアの仕事とプロジェクトマネジャーの仕事はどう違うのかを明確にした上で、トランジションの障壁になっているものを整理し、どうすれば変わることができるのかを、著者のコンサルティング経験に基づき、整理したい。
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エンジニアがよいプロジェクトマネジャーになること(トランジション)は意外なくらい難しい。この記事はエンジニアの仕事とプロジェクトマネジャーの仕事はどう違うのかを明確にした上で、トランジションの障壁になっているものを整理し、どうすれば変わることができるのかを、著者のコンサルティング経験に基づき、整理したい。
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◆「21世紀枠に負けたことは末代までの恥です」
第82回選抜高校野球大会で監督が騒動を巻き起こしている。騒動を起こしたのは、開星(島根)の野々村直通監督(58)。新聞によると、3月22日、第1試合で「21世紀枠」の向陽(和歌山)に1―2で敗れたあとのインタビューで、「21世紀枠に負けたことは末代までの恥です」などと発言したらしい。
スタンフォード大学のアントレプレナー・センターでエグゼクティブ・ディレクターを務めるティナ・シーリグ氏が自身の集中講義の内容を紹介した書籍「What I Wish I Knew When I Was 20(邦訳「20歳のときに知っておきたかったこと」(阪急コミュニケーションズ、2010)」で面白い指摘をしている。
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◆個人と組織
社会保険庁の記録改ざんで、「個人」と「組織」の線引きが問題になっている。社会保険庁に限らず、官民を問わず、この問題は微妙である。改めて組織とは何かと考えさせられる。
「組織で行う」というのは、組織の上位管理者が構成員(以下、社員と書く)に対して、業務命令を行い、社員が実行することを意味している。このロジックで考えると、命令がないのに、社員が「組織のために良かれ」としてやったことは、個人が勝手にやったことになる。
この問題が複雑なのは、その行為を管理者が知っているかどうかで話が変わってくることだ。知っていれば、正規の手続きを踏んでも組織として行ったことになり、知らなければ個人の行為だということになることが多いが、責任体制もそのようななっているかというと極めて怪しい。
◆権限委譲というグレーゾーン
この問題そのものは内部統制の強化で徐々に解決してきたが、依然として残っている問題は、この問題が原因になって起こっている権限委譲の問題である。権限委譲というのを明確な形で行っていないため、ここがグレーゾーンになって、結局、誰の責任か分からなくなっているケースをよく聞く。
プロジェクトマネジメントでもこの問題が出ている。プロジェクトマネジャーの権限を確認すると、「プロジェクトの運営に関するすべて」という答えが返ってくることが少なくない。「関するすべて」という言い方は日本では、「ケースバイケース」と読む。要するに、プロジェクト上位管理者の意向に反しない限り、認めるということで、これは権限委譲とは言わない。意思決定の代行をさせているだけである。言い換えるとサボっているだけである。ゆえに、丸投げといわれる。
◆現場のルールを決める際に、組織全体のルールを決める
統治者は自分自身の統治ルールを決めない。いざというときのために、統治に関するフリーハンドを残しておきたいからだ。これと同じで、組織が現場のルールを決めるときにはルールを課せられた現場に対応する自分たちのルールを決めない。自分たちの問題が発生したら、現場のルールを変えて対応しようとする。
現場のルールを決める前に、ルールの全体のデザインをすべきである。そして、抜け道を作らないことだ。ちなみに、プロジェクトマネジメントのルールを作るときには
・プロジェクトマネジメントポリシー
・プロジェクト区分
・プロジェクトマネジャーの権限
・エグゼクティブの権限
・ビジネスコミッティ、技術コミッティの権限
・プロジェクトマネジメント関係組織間の業務分担と連携
は最低限決めておく必要がある。
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「夢をかなえる象」の勢いがとまらない。テレビドラマ化されただけではなく、ドラマ化されるとまた、売れるという好循環モードに突入の様子。象という動物は頭のよい動物なのだろう。
さて、象でも違った話。サーカスの象の調教方法をご存知だろうか?小象の時分から、杭につないでおく。小象なので、杭を抜いて脱出しようとしても力不足でできない。象は成長し、成人象になる。当然、杭など訳もなく引き抜くことができる。ところが、杭から逃れることはできないという思い込みがあって逃げることはなく、おとなしい象になるという話。
これは、本で読んだ情報なので、真偽は分からない。
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◆計画の位置づけの違い
テレビの道路特定財源の議論を見ていたら、なるほどなと思ったことがある。
日本の道路のコストがなぜ高いのかという議論なのだが、欧州では道路は計画に時間をかけて実現性を持つように徹底的にやる。その代わり、計画が終われば、「計画通り」速やかに工事計画を作り、工事をするので、結果として、企画から供用までの時間は欧米の方がはるかに短いという。
ところが日本は、最初の計画は作るが、実現性は工事での調整任せ。着工すると、できるところから予算をつけてやることになる。ゆえに、とびとびに作り掛け道路が点在しているのだそうだ。
なるほどなあと思った。この問題で、以前、テレビで国道8号線の高架化工事のいきさつの特集をやっていた。一応、計画を作って、タウンミーティングをやる。何回かやっているのだが、住民のコンセンサスは得られていないどころか、報道を信じれば圧倒的に反対住民が多い。にも関わらず、今後もタウンミーティングを続けながらも、計画通りに着工手続きに入り、進めていくというのだ。
基本計画の調整ができていないままで、工事にバトンを渡している。
これでは、いくら、工事計画を精緻に作ろうとその通りに実行できるはずはない。実際に工事を始めると、現場では想定していなかった障害が飛び出してくる。
◆なぜ、コストが高くなるのか?
プロジェクトマネジャーのみなさんなら、まあ、これは最後まで計画通りにいかないと思うのではないだろうか?
では、プロジェクトオーナーは何をやろうとしているのか?とりあえず、キックオフする。そして、比較的、反対住民の少ない箇所から着工し、既成事実を作って、反対住民が多いところを切り崩していく。
ただし、この切り崩しが、当初予算どおりにできるはずがないのは、自明の理だ。既成事実化すれば、土地が上がるし、何らかの補償をするにしても、補償金を上げることが「合理性」を持ってくる。当然、当初計画よりはるかに大きなコストがかかる。役人がリスク管理をしていないはずはないので、おそらく、確信犯でやっているのだろう(リスクをとっているわけではない。リスクを識別して無視しているのだ)。
当然、工事コスト自体もよけいにかかるのも明らか。ところが、ここでも既成事実が意味を持つ。「今、止めてしまうと、今までの投資はすべて無駄になる」というロジックで押し切れるからだ。
◆SIプロジェクトのロジック
実は、このロジック、SIプロジェクトで行われていることに瓜二つ。ポイントは以下の3つだ。
・徹底的に基本計画をせず、大雑把な基本計画でとりあえずプロジェクトを始める
・問題がでてきたら、予算の積み増しを要求し、継続する
・今、やめたら、これまでの投資が無駄になると継続の合理性を主張する
この構図は、SIベンダーを非難しているように聞こえるかもしれないが、違う。3つとも、ユーザ側のプロジェクトマネジャーにとってもそうするメリットがあり、利害が一致するのだ。
計画を詳細化すればするほど、意志決定しにくくなるし、時間がかかる。また、変更がしにくくなる。変更をするのは、担当者にとってみれば一生懸命仕事をしていることのエビデンスだと言えなくもない。そして、中断しないのは一蓮托生である。
このような利害の一致があるがゆえに、止められない。そして、大けがをする。
◆ユーザ側の理性と計画
ただ、ユーザ側に「理性」があると、こんなことにはならない。先日の新聞にこんな記事が載っていた。
=====(抜粋開始)
静岡県を地盤とする地方銀行のスルガ銀行(本店・沼津市)は6日、銀行業務に関する基幹コンピューターシステムの開発を契約通りに行わなかったとして、開発委託先の日本IBM(本社・東京都港区)に約111億円の損害賠償を求める訴訟を東京地裁に起こした
関係者によると、スルガ銀行は2004年9月、銀行業務全般にかかわる基幹システムを刷新するため日本IBMとシステムの開発契約を結び、開発費用の一部はすでに日本IBMに支払っている。ところが、新システムの稼働を予定していた08年1月を過ぎても稼働のめどは立っておらず、開発費用も当初の予定額より膨らんだため、支払った費用の返還などを裁判で争うことにしたという。
スルガ銀行は日本IBMとの開発契約は破棄したと主張しているが、システム開発自体は引き続き進めるとしている。
日本IBMの広報担当者は、「このような訴えを起こされるのは異例だ。訴状が届いていないので詳細は分からないが、スルガ銀行との契約上の義務は果たしたと認識している」と話している。
=====(抜粋終了)
たぶん、記事の内容からすれば、契約の方法などにも問題があるように感じるが、ここで区切りをつけようとしたのは、まさに「理」だとも感じる。
ちなみに、スルガ銀行は横並びしないことで有名な地銀だ。何よりも、スルガ銀行を有名にしたのは、バブルの時に踊らなかった数少ない銀行であったこと。同族経営の強みだと言われているが、まあ、経営や、戦略を感じる企業である。
この記事は、SIプロジェクトのプロジェクトマネジメントは日本で活動しているベンダーとしては頭一つ抜けているという評判のIBMであることがもう一つのポイントだろう。これ以上は憶測になるので控えるが、このような事態が発生するのも、道路の問題と同じく、「計画」という作業の「位置づけ」に問題があるのではないかと推測される。
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先週、土曜日に、母校神戸大学の経営学部の大学院で、「MBAフェロー」というボランティア活動をした。
この活動は、OBの中から20名ほど選ばれたフェローが現役の学生さん(ほとんど社会人)のゼミに参加して、いろいろとアドバイスをしたり、意見を交わすという活動だ。
神戸大学のMBAコースは発足してもう20年近くになるが、比較的古い世代のOBから選ばれたようで、みんな、卒業後、10年以上といった感じ。
好川が参加してきたのは、松尾博文教授のゼミで、SCMとか、製品開発を中心にやっているゼミ。
好川がMBAのコースに行ったのは95年だが、この当時は学生のほとんど中堅・中小企業だった。大企業は、欧米のMBAコースに留学に出すからだ。
ところが今回、参加してまずびっくりしたのは、大企業ばっかりだったということ。関西を代表する大企業は一通り来ているような様相だ。聞けば、最近では、海外留学はほとんどなく、国内留学が主流になってきたとのことで納得。
これがいいかどうかはともかくとして、まあ、学生の質は高く、議論は刺激があって面白かった。
フリーディスカッションをする機会があって、プロジェクト組織の作り方で激論になった。特に、武田製薬、松下電器、任天堂の方との議論が印象深かったが、なんにしても、MBAコースに来ている人がこれだけプロジェクトマネジメントに興味をもっていることが分かったのは収穫だった(製品開発のゼミというバイアスがあるが、、、)
日本のMBAコースにもプロジェクトマネジメントの講義を入れるべきですね。
MBAフェローについてはこちら。
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ある方から、「プロフェッショナル」という記事に批判コメントを戴いた。掲載を許していただけなかったので、できるだけ、ご本人のコメントに触れない形で反論をしておく。
まず、PMIという組織が何のためにあるかを考えてほしい。PMI(Project Management Institute)ができたのが1969年、アポロが月面着陸に成功した年である。この当時はPMIというのはプロジェクトマネジメントの普及団体であった。しかし、1984年、PMP(Project Management Professional)制度ができて、PMIにはもう一つの性格が加わる。それは、プロフェッショナルのための業界団体である。
プロフェッショナルのための業界団体をもう少し正確にいうと、プロフェッショナルの倫理を保証する団体である。このために、そのような団体は、プロフェッショナルの倫理規定を設け、その倫理規定が遵守されるように監視を行う。ピンと来なければ、弁護士会だとか、医師会といった業界団体を思い浮かべてもらうと分かると思う。
ここでもう一つ注意すべきことがある。それは、プロフェッショナルの活動を規定する「法律」があるかどうかだ。医師にしろ、弁護士にしろ、そのような法律があってそれによって活動倫理が規定されている。いわゆる「士業」だ。倫理というとこのような法律遵守を想像するかもしれないが、これは「人を殺傷してはならない」というレベルの話であって、倫理として議論すべきことではないだろう。法律を犯すことは犯罪であり、倫理感云々という問題ではないように思う。倫理とはプロフェッショナルの責任ともいうべきものだ。これはどのような業界のものでもだいたい3つある。
(1)業務とプロフェッショナルであることに対する真摯な態度
(2)業務責任を果たすために必要な専門性の維持
(3)自らが属するプロフェッショナルの地位向上への貢献
の3つだ。
PMIがプロフェッショナル責任として提示しているものを見るとこの点はよく分かる。以下の5点である。
(a)個人の健全性(真摯さ)とプロフェッショナリズムの確立
(b)個人の能力(コンピタンス)の増進
(c)専門領域の知識集積への貢献
(d)利害関係者間の調整
(e)チームや利害関係者との協調関係
上の3つの項目との関係は
(1):(a)、(d)、(e)
(2):(b)
(3):(c)
といったところだろう。
ここでよく考えてほしいがいくつかある。(d)とか(e)というのはプロジェクトマネジメントスキルだと考えているPMPが多いが、そんなに甘いものではない。これらはスキルではなく、プロフェッショナルとしての責任である。
次に、(b)個人の能力(コンピタンス)の増進という項目があるが、プロフェッショナルであれば、時間がないといういいわけはすべきではない。プロジェクトマネジャーとして従事することも、研修を受講することも同等な重要性を持つ仕事である。この点がよく分かっていないPMPが増えているのは嘆かわしい。
また、時間をとってレッスンズラーンドを行うことは、組織への貢献がない、あるいは評価されないとしてもプロフェッショナルとして行うべきである。(c)専門領域の知識集積への貢献として、他のプロフェッショナルのために知識集積をすると、めぐりめぐって、また自分に戻ってくる。
では、自分はプロジェクトで忙しいのでそれどころではない。これらのプロフェッショナル責任を果たせないと思ったときに、何をすべきか。選択肢は2つある。
ひとつは、自身のタイムマネジメントをより真剣に行い時間を作るという道だ。これはドラッカーがプロフェッショナルの条件で非常に重視しているポイントである。
もう一つは何か。いうまでもないと思うので、書かないことにする。
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原丈人という実業家がいる。原さんは、実業家として、手始めに光ファイバーのベンチャー事業で成功し、その後、ベンチャーキャピタルを創設する。技術型のベンチャー育成投資家としては、ボーランド、ゾーラン社などの育成で名をはせている。欧米で活躍している実業家なので、日本ではあまり著名ではないが、世界トップの育成投資家の一人である。
原さんは慶応大学の法学部の卒業で、ファーストキャリアはなんと、考古学の研究者である。一度、原さんの話を聞いたことがあるが、考古学研究とベンチャー発掘育成は似たところがあるという話をされていて、なるほどと妙に感心してしまった。
そのようなものの見方をする原さんが、雑誌ウェッジに非常に面白い記事を書いていたのが目に留まった。
「ビジネススクールの流儀はもはや人を幸せにできない」
という過激なタイトルだ。原さん自身、スタンフォード大学経営学大学院に学んだ経験がある。この記事の内容もとても面白い。ビジネススクールの流儀の数字絶対主義の経営が米国で主流になったのは、米国がいろいろな人種が住む国であり、その中で、唯一、共通の価値観、言語になりえたのが数字だったからだという指摘をしている。その上で、もはや、そのような価値観に行き詰まりが生じ、新しいパラダイムを探しているというだ。ところが、そのような価値観にも関わらず、日本ではいまだに、数字絶対主義経営がもてはやされているのはどういうわけだという問題提起をしている。
この記事を読んで真っ先に思ったのが、この構図はプロジェクトマネジメントの構図そのものであるということ。プロジェクトマネジメントがダイバーシティを前提にしているというのは、難しい話でも何でもなく、単に現象や価値を数字に置き換え、マネジメントをしているに過ぎない。そして、グローバル企業においては、このような考え方が有効だとしている。
イラク戦争を見ても、過去の歴史をみてもそうだが、ものごとを単純化するというのはアメリカという国の特徴である。しかし、ものごとを単純化すると免疫がなくなり、純粋に体力勝負になる。国でいえば大国、企業で言えばグローバル企業だけが有利な構図だ。
プロジェクトマネジメントで重要だとされていることにリスクマネジメントがある。これは間違いないと思う。しかし、リスクマネジメントの識者の共通の見解として、
リスクに強い組織を作るには原理原則を重視し、ものごとを単純化しないことが大切
というのがある。米国がよくやるのは
ものごとを単純化し、単純化された世界で原理原則を大切にする
という、強者が生き延びるためのレトリックである。
米国発のPMBOKのリスクマネジメントの原理を思い出してみてほしい。まず計画と称して、現象や価値を数字化する。その上にリスクというのを定義しているのだ。かつ、数字化するから、リスクが明確になるとまで言っているし、そこでさらにリスクを数字化するという点に及んでは驚きである。
まさに、単純化しておいて、リスクを高め、リスクマネジメントは大切だというマッチポンプをやっているわけである。本当にリスクマネジメントが大切であれば、簡単に数字化すべきではない。現象をきちんと扱っていくべきである。
そして、日本には昔から、そのような知恵があった。それが、ビジネススクール流で崩れつつある。
最近、可視化というのは注目されている。これがまた危険な発想だ。可視化をする前に現場を見るべきである。数字化しておいて、現場(現実)を見えなくし、可視化するというなんとも訳の分からない話だ。これもビジネススクールの流儀だ。
奇遇にも同じウェッジにソニーの不調の話が出ていた。「ビジネス書の杜」ブログでも紹介したが、天外伺朗さんの
マネジメント革命
http://people.weblogs.jp/books/2006/10/post_62e3.html
という本がある。
この本に書かれているのは、まさに、ものごとを単純化しない経営である。
天外伺朗さんは、実は、ソニーでNEWSワークステーションや、AIBOを開発された土井利忠さんのペンネームである。NEWSやAIBOそのものが成功したかどうかというのは微妙なところだが、土井利忠さんが実践されてきたようなマネジメントが本当の意味での現場力を生み、ソニーの反映に寄与したことは間違いないだろう。間違っても、電池の発火原因が数ヶ月経過しても分からないといったことはなかったと思う。
PMBOKを導入した。しかし、何かうまく行かない。しっくりこない。腑に落ちない。
ある人はこれをPMBOKへの理解が足らないという。PMBOKを感じていないという人すらいる。
しかし、本質的に、数字的なマネジメントがそぐわないという組織も少なくないと思う。ソフトウエアの企業で、CMMIやPMBOKを導入して、「社相」が悪くなったなと思う会社がいくつかある。クライアントであれば、だんだん、お付き合いがなくなっている。
ビジネススクールの流儀ではないプロジェクトマネジメントを考えるべきときにあるのではないかと思う。単純化して理解しあうのではなく、コミュニケーションにより相互理解を形成するグローバルマネジメントを考えるべきであろう。
まさに、原さんの言う考古学のように現実を直視し、ありのままに受け入れ、大切に扱っていくようなマネジメントである。
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今年は、PMAJのP2Mの改訂委員会に参加している。先日、委員会の合宿があり、ゆっくりと考えをめぐらせる時間が取れた。
PMBOKはいまや200万人が使う標準である。プロジェクトマネジャーという限定された人が使う標準として、200万という数はすごい。そして、プロジェクトマネジメントだけではなく、プログラムマネジメント、さらにはポートフォリオマネジメントとだんだんその範囲を拡大している。仮に、ポートフォリオマネジメントがメジャーになっていけば、その利用者の数は一桁上がってもおかしくないだろう。
そんな動きがある中で、EUのプロジェクトマネジメントの標準であるICBも今年6月に新しいバージョンであるバージョン3が登場し、PMBOKに遅れはとっているものの、いよいよ、本格的にグローバル展開を開始した(グローバルというか、当面のPMIとの戦場はアジア、特に、インドと中国らしい)。
そんな中で、日本では、P2Mという標準がある。5年前にできた標準で、僕も中小企業経営を中心に、結構、使っている。ただ、5年前というとPMBOK2000と同じ記事であるが、その間の普及を較べると大苦戦をしている。
PMIのアプローチは大変、システマティックであり、実践的である。プロジェクトマネジメントという現場のマネジメントから入り、だんだん、その範囲を拡大し、プログラムはともかくとして、ついに、ポートフォリオまで出てきた。
今のところ、ポートフォリオマネジメント標準については、PMBOK1987程度だと思う。指したり実体はない。しかし、この分野に出てきたことは極めて重要な意味がある。
ポートフォリオマネジメント標準の本にそれぞれの位置づけについて極めて適切な表現がある。それは
ポートフォリオマネジメント : Doing the right work
プログラムマネジメント、プロジェクトマネジメント:Doing work right
という位置づけである。日本語に訳すと
ポートフォリオマネジメント : 正しい仕事をする
プログラムマネジメント、プロジェクトマネジメント:正しく仕事をする
とでも訳すのだろう。「い」と「く」の一字違い。しかし、この一字が現場と経営の違いになっている。いよいよ、この領域に来た。これはエライことだ。
オペレーションのマネジメントはどこの標準でもよいと思う。所詮、如何に合理的にやるかという話であり、よいものはどんどん取り入れていけばよい。しかし、経営レベルで、欧米の標準を使うというのは、文化を受け入れるということ。人の土俵で相撲を取るようなものだ。必ず負けるだろう。
実際のところ、これらの標準に則って仕事をすると、欧米流の考え方により、日本企業が強みの一つにしてきたきた「スカンクワーク」はすべて葬り去られるだろう。ひいては、「人活経営」も崩れ去れる。
ファイナンスの世界で、日本は欧米から、同じ土俵にあがれと非難される。これはそのとおりだと思う。勝手は土俵を作ってビジネスをしていたのでは、迷惑をこうむるのは顧客だ。しかし、問題は、その土俵を誰が作るかという話である。
一方で、P2Mはというと、最初から、正しい仕事をする&正しく仕事をするという両方を睨んだ仕事だった。その意味で、非常に先進性があったし、欧米でも評価されている。
しかし、結局、現在のところ、普及できないままである。土俵になっていない。
話は変わるが、15年くらいまでに、UDL/Iというハードウエア設計言語の標準化プログラムのあるプロジェクトのプロジェクトマネジャーをやったことがある。これも日本発の標準だった。ちょうど、米国の押すVDSLという標準があり、それに対抗する形でMITIが標準を作ろうとした(というか、某企業がMITIを担いで標準を作ろうとした)。
標準はできた。技術的先進性は国際的に評価された。しかし、結局、普及しなかった。このプロジェクトでは、日本で半導体ビジネスをやっている企業が30社近く集まり、コミッティをつくり、進めていった。この中には外資系の会社もあった。しかし、結局、活動の半ばで、既に、VHDLの採用に踏み切る企業もあった。その企業におけるグローバル展開のためである。
P2Mはグローバルな土俵になるのだろうか?
そんなことを考えさせられた1日だった。どれだけ戦力になれるか分からないが、とにかくがんばりたい。
ちなみに、弊社のプログラムマネジメントの標準はP2MとPMIを折衷し、独自の考えで纏め上げたものである。
プログラムマネジメント~複数のプロジェクトを同時に成功させる方法とそのポイント
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タウンミーティングで仕込みが問題になっている。
タウンミーティングとはアメリカが「新大陸」であったころに、最初の入植地であるニューイングランドで行われた市民主導の統治方法である。タウンミーティングとは、市民が地域の問題を議論し投票するために集まるタウン集会をさす。
この統治方法の特徴は、意思決定の対象を市民自身が決めることと、投票者と市民の決断との間に仲介するものがなかったことである。つまり、直接民主制である。当然、このような形態では入植民が多くなると意思決定ができなくなるので、間接民主制に移らざるを得ない。アメリカの場合だと、連邦や連邦憲法による統治に移っていくが、タウンミーティングそのものは根強く残っているという。
この方法に注目したビジネスマンがいた。GEのジャック・ウェルチである。ジャックウェルチはワークアウトプログラムの中にタウンミーティングを位置づけた。ワークアウトにおけるタウンミーティングはニューイングランドのそれとは若干異なる。まず、タウンミーティングメンバーが問題に対する議論をし、結論を出す。その上で、統治者(イシューに対するガバナンスを持つ人)をタウンミーティングに呼び、その場でメンバーの結論に対する意思決定をする。受け入れる場合もあれば、受け入れない場合もある。この仕組みで、通常であれば2~3ヶ月かかる意思決定が1週間程度で終わる。
これはたいへんな慧眼だと思う。タウンミーティングの本質は直接民主制にあり、それは、経営組織でいえば自律組織による統治を意味する。まさに、仕組みを使う人が仕組みを改善していく仕組みとしてはぴったりである。
日本でもこれに似た仕組みはあった。分野は狭いが、QCサークルである。
さて、今回の問題を見ていると、いろいろ批判もあるが、日本では今の時点でタウンミーティングなるものをやろうとするとこういう方法しかなかったように思う。三権分立の理屈の上では、タウンミーティングは行政の仕組みとして行っているわけで、議員とは別の人たちを立てて行う。問題は仕込をどこでやるかだ。質問者に仕込みをやるのは間違いだろう。むしろ、タウンミーティングを仕切る人に仕込みをすべきで、その仕切りを国の行政機関がやっていることそのものが間違いではないかと思う。要するに、ガバナンスの問題である。
これと同じ構図はマネジメントの中にもよくある。コンサルタントとしてある企業でプロジェクトワークアウトを行ったときに、まったく同じことに出会ったことがある。上位マネジャー(統治者)がメンバーに仕込みをして、議論にならなかったことがある。組織のガバナンスとして仕込むのはかまわない。しかし、仕込みは人ではなく、文化である。
要するに民主主義の仕組みなのだ。組織のマネジメントにおいても民主化がされていないところに、プロジェクトマネジメントのような民主化を「前提」にした仕組みを持ち込んでいるところに、ガバナンスの混乱が発生している。
上に述べたように、米国における民主主義は直接民主主義から間接民主主義に変化し、その民主主義をベースにしてマネジメントが行われている。日本人が民主主義を解さないのは、直接民主主義の経験がないからではないかと思う。これが歴史なのだろう。
マネジメントの仕組みを考えるときには、このあたりをよく考えておく必要がある。
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