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僕の愛読しているメルマガのひとつである経営コンサルタントの吉田繁治さんの「ビジネス知識源」で、だいぶ昔であるが、責任について面白いことを書かれていた記憶がある。
「ビジネス知識源」
http://blog.mag2.com/m/log/0000048497/
バックナンバーを探しても見つからなかったので、うろ覚えのままで紹介しておく。
「日本人は責任というのをネガティブに捉えすぎる。責任を取ると言った時は、「個人が不利益を蒙ること(例えば、会社を辞める)」を意味する。つまり、責任という言葉を持ち出すときにはそこまでの覚悟を問われることになる。このように責任というのを捉えると、誰も容易には責任は取れないので、みんなが責任を回避することに精力を費やす。また、逆に責任の追求をあいまいなままで済ますという図式ができあがった」
といったような話だった。
プロジェクトにおいても、責任回避や、責任追求をあいまいにしているプロジェクトは少なくない。トラブルプロジェクトにコンサルティングに入ると必ずといってよいくらい、責任転嫁の構図がある。さすがに名指しで誰が悪いといった露骨なものはめったにないが、プロジェクト自身に問題があるというスタンスのプロジェクトはあまりないが、要員が見つからない、顧客側に問題があるとか、組織のサポートが悪いとかいう話はしょっちゅう耳にする。
特に困るのは、自分の失敗を認めておきながら、プロジェクトは悪くないというプロジェクトマネジャーだ。「スケジュール遅延を速やかに上司に報告しなかったのは自分の責任だ。しかし、スケジュールが遅れているのはプロジェクトの問題というよりも、人の確保ができないことが問題で、メンバーは今の陣容でよくやっていることは認めてほしい」といったことを平気でいう。一見、潔いようにも見えるが、究極の責任転嫁である。
また、このような状況を嫌い、責任をあいまいなままでプロジェクトを進めている企業も少なくない。プロジェクトメンバーが互いに助け合ってプロジェクトを進めていく。責任を明確にしてもプロジェクトの中の人間関係がギクシャクするだけで、プロジェクトにとってメリットはないという言い方をする人も珍しくない。
このような状況の背景には、「責任」というのをネガティブに捉える文化がある。ネガティブに捉えていては捉えていてはプロジェクトマネジメントは成り立たない。
いずれの場合も、プロジェクトにおける責任というのを必要以上に重く考えているからだと思う。RAMを考えてもらえば分かるが、プロジェクトで言っている責任というのは、できなければそんな転地がひっくり変えるような話ではない。少なくとも、個人が不利益をこうむるべき筋合いのものではない。もちろん、責任を持ってやってもらうことは重要なのだが、仮に、任されたことをできなかったときには、「最後までやり遂げることによって責任を取る」という程度のものだ。
こういう話で思い浮かぶのは、日本の国務大臣の責任のとり方である。5年前に小泉が首相になるまでは、何か問題があれば「やめて責任を取る」というパターンだった。つまり、個人が不利益を蒙ることによってみんな納得してねというパターンだ。しかし、5年間で完全に変わった。「業務を全うすることにより責任を取る」ということを堂々と言うようになってきた。これである(安部首相になって先祖がえりしているのが気になるが、、、)
難しいプロジェクトのマネジメント、あるいは、リスクのマネジメントを適正化するためには「責任」に対する意識改革が急がれる。
この記事を書いていてふと思い出したことがある。岡部幸雄という偉大な競馬のジョッキーがいる。競馬では、G1レースの1番人気の馬に乗って騎乗ミスでもしようものなら、100億円もの賭け金が泡に帰す。我々には想像もできないようなプレッシャーだと思うし、日本人的責任感覚でいえば、G1で1回騎乗ミスをすれば騎手を辞めなくては収まらないだろう。ところが彼は、「たかが競馬、されど競馬、Take it easy」といっていた。騎乗ミスしたら、その後のレースできちんと責任を果たすことにより騎手としての責任を果たす。
こういう責任の感じ方、とり方が必要なのではないだろうか?これがプロフェッショナルでもある。
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